戦国大名「藤堂高虎」

戦国大名「藤堂高虎」

滋賀県に由来する戦国大名には、築城の名人として知られる藤堂高虎がいます。

 

高虎は、評価が二分される不思議な人物です。

 

一方では、築城や城下町造りに手腕を発揮して、領内では善政を行った名君でありながら。

 

もう一方では、その生涯で、浅井氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と何度も主君を変えた変節漢という側面もあります。

 

しかし、変節漢という評判は、戦国の当時の価値観ではなく、江戸時代に入ってからの「忠臣は二君に仕えず」という価値観であり。
戦国の頃の武士は、自分を正当に評価しようとしない主には、さっさと見切りをつけるのが普通でした。

 

高虎は、自分がそうであるように、部下が高虎を見限って暇を願い出ても、引きとめようともせず逆に茶を立て、もてなしたと言います。

 

そして、自身の刀を餞別に渡して、「もし、仕官がうまくいかなかったら、いつでも戻ってこい」と言い含めました。
実際に部下が戻って来ると、以前と同じように雇い入れたそうです。

 

高虎は、豊臣秀吉が没すると、逸早く家康に接近しました、その事を諸大名は「恩知らず」と非難しました。
しかし、高虎は逆に、「このような場合に己の立場を明確にできないモノこそ信用できぬ」と言い返したと言います。

 

高虎は、その合理的な態度が家康に信頼され、死の床にある家康の側にいる事を許される程に心を許されました。

 

もし、高虎が軽薄な裏切り者なら、家康はこうまで高虎を厚遇しなかったでしょう。
その子孫である藤堂藩は、戊辰戦争の折り、真っ先に幕府軍を裏切りました。

 

幕府方の諸藩は「流石に先祖の血は争えぬな、、」と冷笑しました。
しかし、藤堂藩は、官軍の命令で、日光東照宮を攻撃するように命じられた時には拒否しています。
「藩祖が賜った大恩がある」がその理由だったそうです。